岡山の介護を支えるプロフェッショナルたち

「自分の望んだ仕事を続けると言うこと」

財団法人 倉敷中央病院 倉敷リバーサイド病院
医療福祉相談室
長瀬 紀子さまインタビュー

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三上「さっそくですが長瀬さんが医療相談員になられたきっかけをお聞かせいただけますか?」

長瀬さん「高校時代は英語が好きで、いつか英語が使える仕事をしたいと思っていました。ところがその頃、AMDA国際医療ボランティアの方のお話を聞く機会があり、英語は手段でしかないということを学びました。英語が使える仕事をするにしても、英語以外の専門分野をきちんと持つ必要があると考えました。また英語は大学に行かなくても生涯勉強できるものだとその時に学びました。こうしたことをきっかけに、心理や相談の仕事に興味を持ち、福祉系の大学に進学しました」

三上「大学入学前から、医療相談員の仕事を目指されていたのですか?」

長瀬さん「元々、身内に病気を抱えているものがいて、看護や医療の仕事にも興味がありましたが、実は病院の相談員という仕事があることは大学へ入学してからはじめて知りました」

三上「医療相談員としてのキャリアはどのくらいになりますか?」

長瀬さん「もう10年以上になります」

三上「4年生の福祉系の大学を卒業され、医療相談員の仕事に就かれても、残念ながら仕事が辛くて、退職や転職をしてしまう人がいらっしゃいます。長瀬さんは辞めたいと思ったことはありませんか?」

長瀬さん「今はもうありません。仕事は決して楽しいことばかりではありません。それはどの仕事も一緒だと思います。この仕事は患者さんの生と死にも関わらなければならないので、正直に言えば入職した当時は辛くて、辞めることばかりを考えていた時もありました。でも自分で決めて、自分でがんばって、そして今、自分が望んでいた職業に就けたことを毎日、思い起こしてがんばりました。ここで辞めてしまえば、自分の今までの努力が無駄になってしまうと思いました。入職してから3年目に後輩が入ってきた頃から、自分のペースで仕事ができていることを実感するようになりました。そして患者さんが元気になって退院されるときの笑顔や、ご家族からのたくさんの「ありがとう」という言葉をいただくうちに、いつか辞めたいという気持ちはなくなっていました」

三上「考えてみれば世の中のほとんどの人は自分が望んだ仕事に就いている訳ではないと思います。そうした意味で長瀬さんをはじめ、自ら望んで医療相談員のお仕事をされている方は、本当にすばらしいことだと思います。ぜひ後進の医療相談員の方々に、辛い時期を乗り切るためのアドバイスがあればお願い致します」

長瀬さん「私は医療相談員になろうと決意した頃のことを思い出します。また、辛いことがあっても、明日はどうしようかを考えると楽しくなってきます。病院の中で医療相談員以外の他職種の方と交流することも重要だと思います」

三上「ところでストレス解消のために何かやられていることはありますか?」

長瀬さん「旅行ですね。そして英会話」

三上「高校時代に、英語は生涯学び続けられると考えてから、本当に今も続けていらっしゃるんですね。最後にヴィラ・プランタン せとうちへの要望は何かございますでしょうか?」

長瀬さん「病院からの相談はどうしても医療管理が必要な患者さんの案件が少なくありません。そうした意味からも今後も期待しております」

三上「がんばりたいと思います。本日はすばらしいお話を本当にありがとうございました」


岡山の介護を支えるプロフェッショナルたち

「困難な仕事にこそやりがいがある」

小規模多機能ホームれんげ 施設長
NPO法人岡山県介護支援専門員協会総社支部長
小原 誠さまインタビュー

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三上「総社支部長になられてからもう長いですね」

小原さん「かれこれ4~5年になります」

三上「総社支部も積極的に活動されていますね」

小原さん「はい。毎月1回の定例会を続けています。昨年は歯科医師会との研修会を、来年は薬剤師会との研修会を予定しています。できるだけ色々な職能団体との連携を強化していきたいと思っています。でも課題もたくさんありますね」

三上「どのような課題ですか?」

小原さん「現在、支部会員は約50名ですが、行政規模を考えると決して多くはありません。支部活動をより充実させていきたいのですが、実際に会員の方がどのような研修を望まれているのか、また、何を望んでいるかがわかっていても、会員の方の経験や能力の差も大きく、どのレベルに合わせた研修を行えばいいのかも大きな課題ですね」

三上「私が支部活動を拝見させていただいた限りでは、小原さんを中心によくまとまっているなという印象を受けます。ところで小原さんがケアマネになられたきっかけは何ですか?」

小原さん「川崎医療福祉大学を卒業し、その後、平成13年にケアマネの資格を取得し、居宅介護支援事業所のケアマネジャーになりました」

三上「資格取得からもう10年になるんですね。現在の小規模多機能ホームの施設長になられる前は居宅介護支援事業所で勤務されていたんですか?」

小原さん「はい。平成13年4月から平成21年11月に小規模多機能施設れんげがオープンするまでは居宅介護支援事業所で勤務していました」

三上「小規模多機能ホームへの異動を告げられた時にはどのように思われましたか?」

小原さん「正直に言えば少しショックでしたね。在宅のケアマネを続けたいという思いは確かにありました。在宅にはまったく一緒のケースがない。困難なケースであればあるほど、ハードルが高ければ高いほど、やりがいを感じることができました。実際に困っている人の話を聞かせていただいて、自分がどのように役に立てるのかを朝から晩まで、それこそ365日、常に考え続けていましたね」

三上「実際にあの頃、小原さんにお会いできることはほとんどありませんでしたね」

小原さん「はい。1日中、外出していました」

三上「実際に小規模多機能ホームに移られてからも在宅への思いはありましたか?」

小原さん「いえ、考えは一変しました。在宅だけでは解決できなかった、あのころの自分では出来なかったことが今は出来ますから、そこに大きなやりがいを感じています。介護者が倒れてしまってまで在宅介護をすべきではありません。その限界を見極めてあげるのも在宅のケアマネの大きな仕事だと今では思えるようになってきました」

三上「話は変わりますが、新しくケアマネの資格を取得された、特に男性ケアマネへのアドバイスは何かありますか?」

小原さん「正直、男性であることで受け入れてもらえなかった経験が僕にもありました。しかし、男性は広い視野で物事を見れるので、それを自分の武器として生かしてもらいたいですね」

三上「最後にヴィラ・プランタン せとうちに期待することはありますか?」

小原さん「海のそばの立地を生かした、こうした施設を希望される方もいらっしゃいますので、あとは、さまざまな事情のある方、より多くの方を受け入れていただきたいですね」

三上「本日はありがとうございました」


岡山の介護を支えるプロフェッショナルたち

「組織力を高める!」
創心会居宅介護支援センター倉敷 部門長 

NPO法人岡山県介護支援専門員協会 倉敷支部長
佐藤 健志さまインタビュー

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三上「倉敷支部の本年度のテーマとして『組織力を高める』を掲げられ、支部として独自の動きを積極的に試みられているとお伺いしております」

佐藤さま「実は、私はケアマネになってからは、まだ5年あまりと短いのです。前支部長からご推薦を頂きまして、今年度より支部長をお引き受けすることと致しました。力不足ですが、皆さんの期待を裏切らないように頑張らないと、と感じています。なぜ組織力を高める必要があるか、と言うと色々理由はあるのですが、一つ上げれば、ケアマネは常に自己管理を求められる仕事だ、という事です。自らを律しながら研さんを重ねる、というのはとても難しいことで、誰しもできる事ではない。ケアマネ同士で相互に高め合える場が必要だ、という事が、理由の一つに挙げられます。」

三上「狭義の意味での組織力ですね」

佐藤さま「その通りです。また、ケアマネは、個々のご利用者様に対する支援の中心的役割を果たしています。そこに生じる様々な問題、現場の声を行政に届けて、制度の仕組みを動かす役割をも担っていると、私は考えます。しかしそれは、ひとりのケアマネの力ではどうにもなりません。ケアマネ一人一人の力を合わせる事。そして行動に繋げる。その為には組織力が必要になるのです。」

三上「倉敷支部の運営で課題はありますか?」

佐藤さま「現在倉敷支部の会員数は約150名ですが、組織力を高めるといった意味では、まだまだ人数が少ないと考えています。また施設ケアマネさんには、情報が届きにくいというお話も伺っています。施設の皆さんにももっと積極的にご参加頂きたい、という願いを込めて、本年より施設部会も設置しました。」

三上「とにかく佐藤さまは積極的な活動を展開されていますね」

佐藤さま「ケアマネが当事者意識を持てる環境を整えたいと考えています。行政から指導されるから従う、という受け身の姿勢は物足りません。生活を預かっているのはあくまで我々ですので、色んな話を忌憚なくできる場にしたいです。ただ、今は考え過ぎないで、動くことが重要だと考えています。とにかくひとりでも多くのケアマネに参加していただきたい。これに尽きます。」

三上「ところで佐藤さまがケアマネになろうと思ったきっかけは何ですか?」

佐藤さま「実は私は、最初から福祉の仕事をめざしていた訳ではありませんでした。元々病院で事務員をしていて、新たにデイサービスを立ち上げる時に、配置転換になったのがそもそものきっかけです。ところが異動してみれば、本当に面白くやりがいのある仕事でした。この仕事は辞められない、と思いましたね。この世界でこれからも生きてゆく為には、資格が必要だと思い、30歳までに取れる資格は全部取ろうと決意しました。ただ、資格を取る勉強というのは、目標の明確な“天井のある勉強”だと思っています。私達本来の仕事を考えれば、こうした天井は無い、無限に続く勉強です。ですから、まだまだ勉強が必要だと考えています。心理学も、法律も、経営も、まだまだ視野を広げるために学ぶべきことはたくさんあります」

三上「佐藤さまは今も日々、勉強をされているのですね。では最後にヴィラ・プランタン せとうちにご要望などがあればお聞かせください」

佐藤さま「医療依存度の高い方が安心して生活できる場を提供し続けて頂きたい。もう一つは、ここだったら自分も入りたいなと思えるような、付加価値のある施設であり続けてください。ホスピタリティを追求して下さい。」

三上「ありがとうございました」


岡山の介護を支えるプロフェッショナルたち

製品開発に託したあの頃の夢
橋本義肢製作株式会社 代表取締役 橋本泰典さまインタビュー

松浦「本日は設立70年、法人化されてからも50年の歴史のある、橋本義肢製作株式会社の橋本泰典社長にお話をお伺いしたいと思います。さっそくで大変失礼ですが、橋本社長はおいくつでいらっしゃいますか?」

橋本社長「43歳です」

松浦「若くして会社を継がれたんですね」

橋本社長「実は私が橋本義肢を継いで代表取締役に就任したのは28歳の時でした。先代の父が2年間の闘病の後に亡くなり、すぐに僕が後を継がざるをえなくなったのです」

松浦「橋本社長はその時はもう橋本義肢にいらっしゃったんですか?」

橋本社長「その時は大学でロボットの研究をしていました。将来は大学の先生になるつもりでした。社会経験もないまま、いきなり会社を継ぐことになったんです」

松浦「会社を継がれるご予定ではなかったんですね?」

橋本社長「すぐにはという意味ではそうですね。ただいずれは継ぎたいと考えていました。父は本当に休日もなく、四六時中仕事をしていました。お正月やクリスマスですら、どこにも行ったことはありませんでした。子供の頃から父の仕事と、義肢装具を見て育ちました。ちょうど子供の頃のテレビの子供番組にはロボットがたくさん登場していました。特に「キカイダー」というテレビ番組には夢中になっていました。もちろん義肢装具にも興味を持ち
はじめていました。どうして義肢装具はもっと色々なことが出来ないんだろうか?と考えたこともありました。時には生意気にも父に仕事のことで口を出して、ひどく叱られたこともあります。そうした子供の頃の思いが、ロボット工学の研究の道へと進むきっかけになったのかもしれませんね。いつかこの研究を会社に生かすことができるのではないかと考えていました。」

松浦「今、そのご経験は生かせていますか?」

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橋本社長「おかげさまで少しずつ考えてきたことは実現しています。当社では現在、まったく新しいデザインや製品を開発する開発チームを結成し、さまざまな経歴をもった社員に新しい商品開発に取り組んでもらっています。ユニークな経歴では陶芸の仕事をしていた人間もいるんですよ。そうした個人個人の経験や強みを生かしながら製品開発を進めています。そうして誕生したのが、このカーボンFRPを使用した新しい下肢装具です」

松浦「今までのものとはまったく違いますね。とてもおしゃれですし、とても軽くて丈夫そうです」

橋本社長「はい。今の若い方で装具を使用される方の多くは、デザイン性を求めていらっしゃいます。法制度も変わりデザイン性が高いものは本人の差額負担が認められるようになりました。これからはただ与えられるだけでなく、自分で選ぶ時代が来ると考えています。また松浦さんのおっしゃった通り、この素材はとても丈夫でしかも軽いんです。従来品が1.4kgに対して、この商品はわずか800gしかありません」

松浦「開発にはずいぶんと苦労をされましたか?」

橋本社長「はい。カーボンFRPは実は陶芸と同じように窯で焼かなくてはなりません。窯に温度のむらなどがあるとどうしてもうまく行きません。そこで力を発揮してくれたのが陶芸の経験者の社員でした」

松浦「なるほど。それはすばらしいチームワークですね」

橋本社長「私自身もロボット工学の知識はもちろん、大学にいた経験を生かして、他の大学との共同研究開発なども積極的に推進しています。保険制度はこれからも益々、厳しくなると思います。保険がきかないものでも、ご利用者が本当に望むものなら自費でご購入いただくことも可能だと考えています。そのためにもご利用者の視点に立った、新しい製品を生みだしてゆかなくてはなりません」

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松浦「将来への方向性を示してもらえると、社員の方々もきっとやりがいがありますね」

橋本社長「社員も新しい事へチャレンジする事が大好きです。また同じことばかりをしていたら、これからの時代、会社は存続してゆけないかもしれません」

松浦「中にはご自分の夢を封印され家業を継がれる方もいらっしゃいますが、橋本社長はご自分の夢と、現在の事業がちゃんと繋がっているように思えます」

橋本社長「その通りです。社員がいきいきと頑張っている姿を見ると、今は本当に楽しいです」

松浦「これからの展望もぜひお聞かせください」

橋本社長「岡山の地場産業というポジションから、これから世界にも目を向けようと思っています。海外の展示会の出展や、米国の会社との契約交渉も進めています」

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橋本義肢製作株式会社
http://www.hashimoto.co.jp/hashimotogisi/index.html

松浦「ところでヴィラ・プランタン せとうちに対して、何かご要望等はありますか?」

橋本社長「すべての人が同じサービスしか受けられない、ということに関しては私自身も疑問があります。そうした意味でもヴィラ・プランタン せとうちの提供している特別なサービスは、大きな存在意義があると思います」

松浦「今日はお忙しいところ本当にありがとうございました。これからもぜひ素晴らし製品を生みだしてください」

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大学でロボットを研究されていた橋本社長ですが、それは現在、そして未来へとつながる、子供の頃からの大きな夢の掛け橋でした。いつか義肢装具に革命を起すような素晴らしい製品が橋本社長の率いる開発チームから生まれることを確信しました。ありがとうございました。

松浦 美代


「相談員は人間力が試される仕事」

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玉野三井病院 相談室(兼地域医療連携室)相談員  
義田 博さまインタビュー   

三上「相談員になられたきっかけをお聞かせいただけますか?」

義田さん「元々はリハビリテーションの仕事に約20年携わってきました。当院が介護病棟を作る時に介護支援専門員の業務を行うことになり、その後、病院全体の相談員になりました。相談員の仕事はしばらくの期間、言語聴覚士と兼任でやっていましたが、同じく看護師と兼任で相談員をしていた方が退職され専任の相談員になりました」

三上「相談員としてのやりがいをお聞かせください」

義田さん「相談員は今の時代に必要な職業だと思います。高齢者も増えていますが、昔のように家族で介護出来ない状況になってきています。そうしたことからも役に立つことができる仕事だと実感しています」

三上「1日の相談件数はどのぐらいですか?」

義田さん「当院は143床ですが、患者様からの直接のご相談は1日に数件です。但し、患者様に関連した件で職員や外部の方と行う調整は1日に10件以上です」

三上「やはりその中には難しい案件もありますか?」

義田さん「はい。どうしても退院後が難しい方は常時いらっしゃいます。例えば施設に入ろうとしても経済的に無理であるとか。医療をみてくれる施設を希望しても、満室で入居できないなど。在宅に帰
りたくないのに、帰らざるをえないケースも出てきます。退院に際してご本人やご家族が希望しているようにできなかった場合には本当に辛く、ストレスを感じますね」

三上「ご苦労やストレスも大変なものだと思います。ところで義田さまはストレスを解消できる趣味などはありますか?」

義田さん「ギター音楽が好きで、自分でもギターを弾きますし、ギターも集めています。楽器屋さんに行けば時間を忘れてしまいます。ギターには1本1本個性があります。高いギターだけでなく、安いギターにも1本1本ちがいがあり、その中には良いものもたくさんあります。ギターも人間と同じように、それぞれに個性があるのが本当におもしろいですね」

三上「話は戻りますが、今後相談員のお仕事はどのように変化すると思われますか?」

義田さん「今後、この仕事は、ますます重要になると考えています。高齢者がますます増加し、高齢者介護を取り巻く環境は、どんどんと厳しくなり、悩んでいる人も増えてゆきます。相談員としてもっと うまくご要望を引き出さなくてはならなくなると考えています。医師や看護師、そして地域の介護支援専門員の方々との連携も今以上に重要になってきます。人間力を試される職場だと痛感しています」

三上「最後にヴィラ・プランタン せとうちに何かご要望はありますか?」

義田さん「プランタンさんにはこれまでも医療度が高い患者様や、ある程度、大変な患者様も受け入れていただき感謝しています。ただ価格は高いですね。施設やサービスの内容を考えれば決して高い訳ではないと思いますが」

三上「少しでもお役に立てるようにがんばりたいと思います。本日はお忙しい中、本当にありがとうございました」

インタビューアー ヴィラ・プランタン せとうち 三上智


「ケアマネの経験をデイに、デイの経験をケアマネに」

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居宅介護支援事業所 アール・ケア 管理者
NPO法人 岡山県介護支援専門員協会 玉野支部長
二宮 崇さまインタビュー


三上「二宮さんがケアマネジャーになられたきっかけをお聞かせいただけますか?」


二宮さん「元々は学校の先生になりたいと思っていたんですが、ある時に母から福祉大学の存在を聞かされ興味を持ち入学しました。まだ介護保険がはじまる2年くらい前で、そこで社会福祉士の資格を取得して卒業しました。卒業後はデイサービスの相談員として利用者やご家族の相談を受けていましたが、その後、介護保険が始まったことによって相談はケアマネが中心になってきて、自分がやっている仕事が少しもの足りなくなってしまいました。何よりも本人や家族と近い位置で相談をおこなえ調整ができる仕事をしてみたくて、5年の経験を経てケアマネの資格を取得しました」

三上「それからケアマネをご経験された後にデイサービスの立ち上げにご参加され、管理者になられた訳ですね」

二宮さん「そうですね。自分がケアマネの経験があったからこそ、反対に今はサービス側の立場から、ケアマネだったらどのような情報がほしいか、どうすればケアマネと良い関係を築けるのかを考え実行することができたのではないかと思っています。具体的には初回報告というのを実施していました。自分がケアマネをしている時には初回利用の状況はとても気になり、訪問したり電話で確認をさせていただいていました。うまくいったのかどうか、問題があったのかなかったのかなど、初回の様子は詳細にお伝えすることにしています。こうした発想もやはり自分がケアマネをしていた経験から生まれたものだと思います。また今回、社内で異動がありケアマネに戻ることになったわけですが、反対にサービス側を経験したことで何か生かせるのではないかと思っています」

三上「アール・ケアで運営されるデイサービスでは、個別のリハビリに重きをおかれ、きっちりと差別化ができていたと感じています。デイサービスの立ち上げ後、まもなくしてケアマネに戻られ、まさに後ろ髪を引かれる思いではなかったかと思いますが、実際のところどうだったのでしょうか。」

二宮さん「ケアマネは大変だという声をよく聞きますが、僕はケアマネの仕事が好きです。やはり人と人をつなぐのが好きなんですね。時には無理難題を言われることも確かにありますが、その時にも一生懸命自分なりに考えて、それがきっかけでご本人の生活が良くなってゆくのを実際に見てきていますので、本当に自分にとって大きなやりがいのある仕事だと思っています」

三上「ところでご家族の方が介護の事で困ったときには、どのようにすべきだと思われますか?」

二宮さん「ケアマネでも地域包括支援センターの相談員でもいいので相談をされるべきだと思います。どうしようかと悩んでいるうちに本人の調子が悪くなることもあります。やはり早く良いケアマネとつながることが大切だと思います。そうしたことからも常にケアマネの質の向上のために、岡山県介護支援専門員協会の玉野支部では毎月定例会を開催し、勉強会や社会資源に関する情報の共有を行っています」

三上「最後にヴィラ・プランタン せとうちに対してご要望はありますか?」

二宮さん「現在の高級感はぜひ残して欲しいと思います。差別化の面ではこうした施設が絶対に必要だと思います。また、色々な状況の方を受け入れる努力をしてくださるのが、ありがたいです」

三上「力不足の面もあると思いますががんばりたいと思います。本日は本当にありがとうございました」

インタビューアー ヴィラ・プランタン せとうち 三上智


岡山の介護を支えるプロフェッショナルたち

「すべての経験はきっと生かせる」
アイ・ソネックス株式会社 代表取締役 舟木 美砂子さんインタビュー

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舟木美砂子さんが開発されたナーセントパット

医療・介護の現場で働く看護師や介護職員でナーセントパット(上記写真)を知らない人はおそらくいないと思います。しかしこのナーセントが岡山で、そしてひとりの素敵な女性から誕生したことを知らない人もたくさんいらっしゃると思います。今回はナーセントを初めとした福祉用具の考案者であり、その製造販売元であるアイ・ソネックス株式会社の代表取締役の舟木美砂子さまにロング・インタビューをさせていただきました。舟木社長は株式会社舟木義肢の専務取締役として、長年にわたり福祉用具を取り扱ってこられ、さらに作業療法士の資格、義肢装具士の資格、介護支援専門員(ケアマネ)等の資格や、豊富なご経験を生かして医療と介護の中のさまざまな分野でもご活躍されてきました。

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松浦 「私も医療の現場で看護師をしていた時には、このナーセントパットはあたりまえに使っていました。まさかこれを舟木社長が考案されたなんて当時はまったく知りませんでした。ぜひその秘話などもお聞かせいただければと思います。ところで舟木社長はどのようなきっかけでこの分野に進まれたのですか?」

舟木社長 「まだ幼いころに父が他界し、私は母の実家の山口県で育ちましたが、母はその後再婚し、私も養女として義父に育てられました。小学生から歌うことが大好きで、宇部高校時小学生から歌うことが大好きで、宇部高校時代は365日合唱に明け暮れて、学業は二の次の生活でした。高校2年生の時にNHK合唱コンクールで全国優勝したのですが、この体験から、何事も一生懸命にやれば夢は達成できる、ということを学んだような気がします。ところでリハビリテーションの分野にすすんだのは、偶然、リハビリテーション養成校の紹介するテレビ番組を見たことがきっかけ。入学金も授業料も無料だったのは、魅力的でした。そして何よりも未知のリハビリテーションには、惹かれるものがありました」

松浦 「なぜリハビリテーションに興味を持たれたのですか?」

舟木社長 「実は、母の再婚先には義理の兄が二人おり、下の兄は病弱で幼少期は成長が人より遅く、そのことでいじめにあうこともありました。いつも兄と一緒に遊んでいた私は、本人には罪のないことを他人はどうして責めたり嘲笑したりするのだろうと憤りを感じることもありました。母は、下の兄がいたずらをしても勉強ができなくても、叱らず「体が小さいからすばしっこくて木登りも上手!」などと褒めていました。また長兄は、母が再婚するまで親戚を転々としていたためにひどい夜尿症だったそうですが、その兄のために7枚の敷布団を縫って、「これで毎日、おねしょをしてもだいじょうぶだよ」と言ったそうです。安心したのか兄はその日から反対におねしょをしなくなったそうです。こうした母の姿が私をリハビリテーションへの世界へと向かわせたのかもしれませんね」

松浦 「本当にすばらしいお母さまだったんですね。このお話、とても感動しました。こうして舟木社長はリハビリテーション大学校へと進まれる訳ですね」

舟木社長 「はい。実は地元の国立大学にも合格したのですが、リハビリテーション大学校に行きたいと言うと高校の担任には反対されました。それほど当時はリハビリテーションが認知されていなかったのでしょう。それでも母の後押しがあって入学し、全国231番目の作業療法士として就職することになりました」

松浦 「その後は医療機関にお勤めされたんですか?」

舟木社長 「私は急性期ではなく社会的リハビリテーションに興味があったので、東京都の心身障害者福祉センターに勤務しました。当時はリハビリテーションの黎明期で、将来の日本の作業療法や理学療法を担う先輩や同輩が集まり、非常に学究的な環境でした。東京都心身障害者福祉センターでの経験はその後の私の大きな力となりました」

松浦 「それから、舟木社長は舟木義肢に嫁がれ、岡山にいらっしゃった訳ですね」

舟木社長 「はい。岡山の生活はスタートから波乱ずくめでした。結婚式の2週間前に主人の母が脳炎で倒れ、私は結婚式の翌日から入院中の義理の母の世話をはじめることになってしまいました。義理の母が亡くなった後は、義父や主人の弟妹と同居し、家事や家業の手伝いを引き受けることになりました。また、同居3年後には義父が脳梗塞で倒れ、私は嫁いでからずっと家族の介護や家事、家業に追われることになりました。」

松浦 「それは本当に大変でしたね。」

舟木社長 「子供も生まれ、家族の世話や家業に追われて、7年も8年も埋もれていましたね。その間、東京都時代の親友や同僚は大学院に進み教職に付くなどして着実にキャリアを積んでいるように見えました。弟妹が独立し、子育てが一段落して気づいた時には自分には何も残っていないような焦りがありました。自分らしいことを何もしていない。何かしなくてはいけない。何をすればいいのか。そんなことを2年くらい思い悩んで、不退転の覚悟ではじめたのが岡山県で第1号となる介護ショップでした。」

松浦 「なぜ介護ショップだったんですか?」

舟木社長 「それは、舟木義肢のお客様から相談に乗って欲しい、生活に便利な用具を見たいというような電話や手紙をいただくようになったことがヒントになりました。今から二十二年前のことですから、在宅で暮らす身体障害をもった方々やご高齢者には、気軽に行ける相談場所や展示場所がなかったのです。これまでの私の様々な経験が生かされるのは、そのような場所づくりだと直感しました。民間ですから収益性のない事業は、社長である主人の許可は得られませんので、福祉用具を販売する介護ショップを開設することにしました。これからの高齢化社会には、福祉用具は必ず求められるものになるという確信はありましたが、できるだけ赤字をださないように当面は一人で運営することが社長からの条件でした。全国にまだ数箇所しかなかった福祉用具展示場や介護ショップを見学し、小さな店舗を作り、ショップ開設の案内を市町村の保健所や福祉事務所に向けて発信しました。それがすべてのはじまりでした」

松浦「お一人で介護ショップを始められた訳ですね」

舟木社長「高齢化社会の到来が話題になりはじめた頃で、老人福祉法の改正にともなって地域の保健師さんが在宅高齢者の実態調査をはじめたばかりでした。私は東京都心身障害者福祉センター時代に、訪問によるサービス提供にも携わっていましたので、市町村の福祉事務所や保健所などの公的機関にショップ開設の案内を郵送することにしました」

松浦「反応はいかがでしたか?」

舟木社長「おかげさまで、あちこちから声を掛けていただくようになりました。実は作業療法士の資格も、義肢装具士の資格も伏せて、名刺にはただ営業とだけ書いていましたから、保健師さんと同行すると、とても驚かれてしまいました。制度のことも、道具のことも、福祉サービスのさまざまなことを経験してきましたから、『あなた何者?』って。そのうちそれが評判になって、ほんとうにたくさんの方々に声を掛けていただくようになりました」

松浦「まさにこれまでの経験が生かせた訳ですね」

舟木社長「私は長男の嫁で家族の立場でも苦労してきましたから。だから訪問するとまず、ご本人や家族の思い、身体の状況など聞きとり、そこから一緒に考えて、悩んで、制度の活用も念頭に入れてサービスを提供することを実践していました。やがて子供がまだ小さかったにもかかわらず、夜の11時、12時を過ぎても家に帰れない日が続くようになって、ついに山口から母に来てもらうことしました」

松浦「ナーセントパットをご考案されたのもこの頃だとお伺いしましたが」

舟木社長「はい。重度の床ずれのある方のお宅を訪問看護師さんと同行訪問したときのことです。その方は、仙骨と両側の大転子にも床ずれができて大変困っておられ、「何かよいものはないか?」とのご相談でした。その当時の商品では思いつくものがなかったので、在宅で簡単に使えて、効果のあるものを自分で作ろうと思いました。そのときヒントになったのが、腰に掌を差し込んで、『こうすると(床ずれに)あたらなくて痛くないんよ』と話されていた在宅の方のことです。そのことを思い出し腰の両側からくさび状のパットを差し込んで仙骨を浮かすことを思い付きました。幸いにも義肢装具の工場には、試作する材料はいくらでもありますので、試行錯誤しながらくさびの角度を30度に決めました。それを早速ご相談者の方に使ってもらいました。すると1ヶ月半後に訪問看護師さんから「褥瘡が治ってきた!」との報告があったのです。

松浦「この分野で働く誰もが知っているナーセントパットの誕生ですね」

舟木社長「しばらくは舟木義肢で受注生産していましたが、その後、ご縁があって1988年から株式会社池田模範堂を通して全国販売していただくことになりました。舟木義肢の介護用品事業部は、お客様の声を聞くために中四国地区の総代理店となり、さらに製品の改善や、新たな開発も進めました。その後、2005年に池田模範堂から事業譲渡の話が持ち上がり、舟木義肢の介護用品事業部からも事業譲渡を受け、アイ・ソネックス株式会社を設立する決心をしました。それが5年前です。この5年間は組織づくりが新たなテーマとなりました。組織とは人が生き生きと働ける場所、組織とは自分がここにいて役に立つ人間だと思える場所、そんな組織づくりのために今も勉強中です」

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財団法人テクノエイド協会の助成を受けて開発されたスカイリフト
トイレで排泄ケアをしてあげたいという願いから生まれた製品


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症状の変化に対応できる長取っ手と短取っ手が特徴のナーセントポータブルトイレ。長取っ手は取っ手をつかんで前かがみになり、体重を前方に移動しながら立ち上がる動きが自然にでき、短取っ手は寝ている状態から起きあがる際、取っ手をつかんで楽に身体を起こせるなどさまざまな利点がある。現場を知る舟木さんだからこそ開発できた製品。

松浦「すばらしいお考えですね。プランタンでも、1週間に1日、例え数時間しか勤務できなくても、みんなから必要とされる人であって、その時間をたいせつにできる人が集まれば、すばらしい職場になるのかなと考えています。ところでお話は変わりますがお子さまは、どのような道に進まれましたか?」

舟木社長「上の子は脳神経外科医になりました。お金儲けする医者にはなれないけど、人の最期を看取れる医師になりたいと言って。下の子は私と同じ作業療法士の道に進みました。母がいてくれたから子供達に関しては苦労をさせられたことはありませんでした。本当にみんな素直に育ってくれました。そんな母がパーキンソン病になり嚥下障害から食べられなくなり、どんどん痩せていって・・・母のことではみんな苦しみ、なんとかしてあげたいと思いました。子供たちも休みの度に帰って、ずいぶんと支援をしてくれました。上の子が医師免許を取得して『合格したよ、おばあちゃん』と報告した翌々日に母は亡くなりました。担当の先生に促され息子が母の最期の脈をとらせていただきました。最愛の孫に看取ってもらえて母は幸せだったと思います」

松浦「医師免許を取得して最初の看取りがお母さまだったんですね」

舟木社長「私は母にロザリオを握らせて『イエスさまが一緒にいてくれるから、安心して行ってらっしゃい』と言ってあげることができました。母は安らかな顔で頷きました。家族のみんなも『ありがとう、また会おうね』と言って母をおくりだしました。実はこれも母が私の祖母を看取ったときにしたことでした。おくりだし方すらも私は母から教わったんです」

松浦「本当にすばらしいお母さまだったんですね。すばらしいお話をありがとうございました」

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アイ・ソネックス株式会社 代表取締役の舟木美砂子さまのロングインタビューを掲載させていただきました。その考え方、その生き方に何度も感動しました。私も「すべての経験はきっと生かせる」そう信じて頑張ることができそうです。本当にありがとうございました。

松浦美代

アイ・ソネックス株式会社ホームページ


岡山の介護を支えるプロフェッショナルたち

フリーライター 野田明宏さんインタビュー
「男が介護をするということ」①

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今回のゲストはフリーライターの野田明宏さんです。野田さんは現在、お母さまを在宅で介護されながら、山陽新聞のエッセイ・コラムや「アルツハイマーのお袋との800日」(時事通信社)、「アルツハイマー在宅介護最前線」(ミネルヴァ書房)などの書籍の執筆や講演活動をされています。今回は在宅介護を実践されている野田さんのお話を通して、介護について改めて考えてみたいと思います。

松浦 「さてさっそくですが、在宅介護を実践されている野田さんからみて、施設で介護をすることはどのように思われますか?」

野田さん「以前に特別養護老人ホームで、ご家族の方々の前で講演をしたことがあります。その時ばかりは本当に困りました(笑)人によって事情はまったくちがいます。だからこれが正しい介護だとか、そんなえらそうなことは絶対に言えません。僕の置かれた環境があって、今、在宅介護という選択をしているに過ぎないんですから。はっきり言って、僕に妻や、姉がいれば今、僕は在宅介護なんかしていないかもしれません」

松浦 「では野田さんが在宅介護という選択をされたきっかけを教えていただけませんか?」

野田さん「現在、僕は認知症の母を在宅で介護しています。お袋の在宅介護をはじめてから7年以上がたちます。しかし、そのきっかけとなったのは、それよりもずっと前に経験した親父の介護でした」

松浦 「お父様も野田さんが介護されたんですか?」

野田さん「はい。でもはじめからそうしようと考えていた訳ではありません。僕はそれまで好き放題に生きてきました。世界中を放浪し内戦下にあった、エルサルバドルでは政府軍のパトロールにも同行取材したこともあります。ここに骨を埋めようかと本気で考えていました。ところが一時帰国した時に、親父が入院することになってしまったんです」

松浦「それで野田さんがお父様を介護することに?」

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野田さん「いやいや。その頃にはお袋がまだ元気でしたから。介護をしていたのはお袋でした。僕はすぐにあちら(海外)に帰るつもりでしたし、病院のような場所に行くことさえも何だか嫌でたまりませんでした。さらに言えば実は親父と僕は、それまであまりうまくいっていませんでしたから・・・」

松浦「でも結局は介護をされることに?」

野田さん「はい。病院への泊り込みの介護で、疲れ果てていたお袋に、少しは優しい言葉でも掛けてあげようと思い『今日は変わったるがな・・・』とつい言ってしまいました。実は、お袋が本当に帰ってしまうとはまったく思っていませんでしたから(笑)でもお袋は本当に疲れていたんでしょうね。帰ってしまいました。心の準備もないままに、いきなり僕は親父の介護をすることになりました」

松浦「どうでしたか?」

野田さん「今から思えばたいしたことはありませんが、あの日の出来事は本当にカルチャーショックでした。第1日目にして真夜中に排泄物で汚れたものを処理して、おむつの交換まで経験しました。そうした知識も経験もまったくありませんでしたから、本当に必死でした」

松浦「これがきっかけでお父様の介護をされるようになったのですか?」

野田さん「そうですね。その後も親父の病状はあまりよくなく、さらに認知症の症状なども見られるようになりました。最終的には10ヶ月間、お袋と24時間交代で病院に寝泊まりして親父の介護をしました」

松浦「男性が病院に寝泊まりをして、ご家族の介護をされるのはたいへんではありませんでしたか?」

野田さん「確かにそうですね。まず、仕事と介護を両立させることはできないと実感しました。しかもまわりの人からも男が仕事ではなく、介護することを選択することが理解してもらえませんでした。『まともに生きていない』とさえ言われました」

松浦「ところで結局、その後は海外には戻られたのですか?」

野田さん「不思議と海外への興味はまったく無くなっていました。親父の介護を通してさまざまな葛藤や経験を重ね、介護の世界に大きな興味が生まれました」

松浦「それで介護ライターとして活動をはじめられる訳ですね。ところでお母さまを介護されるようになったのは?」

野田さん「親父が亡くなってから約10年後です」

松浦「認知症や介護に関する知識は既にお持ちだった訳ですね」

野田さん「確かにそれまでの間、色々な施設や医療機関も取材で見学させていただいていましたが、いざ自分の家族が認知症になったらそれはまったく別ものでしたね。これは残念ながら経験したことのある人にしかわからないと思います」

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次回、ハーモニー春号ではいよいよ、お母さまの介護についてのお話をお伺いしたいと思います。野田さんは言葉を飾らず、ありのままにお話をされる方でした。現在、インターネットで公開されている日記の中には、辛くて読み返せないものもあるそうです。野田さんは、お母さまのことを「本当に愛おしい」とおっしいます。次回もどうぞご期待ください。(松浦美代)

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前回は野田さんにお父さまの介護についてお話をお伺いしました。現在、野田さんはお一人でお母さまを在宅介護されています。野田さんの在宅介護はテレビ東京をはじめ、さまざまなメディアで紹介されています。また、「アルツハイマーのお袋との800日」(時事通信社)、「アルツハイマー在宅介護最前線」(ミネルヴァ書房)、「アルツハイマーの母をよろしく」(ミネルヴァ書房)などの著作もあります。今回はいよいよお母さまの介護についてお話をお伺いします。

松浦「お父さまがお亡くなりになり、お母さまを介護するまでは何年ぐらいあったのですか?」

野田さん「約10年です。そしてお袋がアルツハイマーと確定診断されて、介護をするようになってから約8年になります」

松浦「お母さまはお元気でいらっしゃいますか?」

野田さん「先日も検査入院をしましたが、先生からも調子がいいですよと言っていただきました。まだまだ長丁場になりそうです」

松浦「お父さまの時には、そのお母さまと一緒に介護をされた訳ですが、お母さまは野田さんがおひとりで在宅介護をされている訳ですよね。それは本当にたいへんなことだと思います。なぜおひとりでもお母さまをご自分で介護されようと思ったのですか?」

野田さん「僕はずいぶんとお袋には心配や苦労をかけてきました。それまでの僕の人生はすべてが中途半端でした。でも中途半端な気持ちでは介護はできないことを、親父の介護を通してよく知っていました。だからお袋は、とにかくきっちりと自分で介護しよう。自分でそう決めました。確かに今はどこにも行けない毎日です。きついことはきついけど、お袋のせいだとか思ったことはありません。今は本当に愛おしくてしかたがないんです。生きてさえいてくれればそれでいい。一緒に過ごせるだけで毎日がなんだか幸せなんです」

松浦「ブログも拝見しましたが、本当にお辛かった時期もありましたね」

野田さん「最近の日記『新和ちゃんと一緒に』は余裕が出来ていますが(笑)その前に書いていた『日記』はとにかく悲愴感が漂っています。平気でお袋を叩いて、それがあざになっている写真をアップしたり・・・むちゃくちゃでした。あれはもう読み返せません。お袋がかわいそうで・・・」

松浦「どのような思いでブログを書かれていたのですか?」

野田さん「まだブログという言葉もない時代で、僕はホームページの作り方の本を買ってきて勉強しながらアップしていました。とにかく一親等はお袋と僕しかいませんでしたので、誰にも愚痴も言えませんでした。書くことによってうっぷんをはらしていたのかもしれません。誰かに聞いて欲しい、わかって欲しいというのもありました。当時は日記に書くことにしか逃げ道がありませんでしたから」

松浦「がんばらない介護という言葉もありますが、それは野田さんから見てどのように思いますか?」

野田さん「私の連載記事が山陽新聞に掲載された日、その隣が共同通信配信の『がんばらない介護』の記事でした(笑)はじめは『がんばらない介護』という考えが理解できませんでした。がんばらないとやはり介護はできないと思っていましたから。でもよく調べてみると一生懸命にやってきた人が、がんばらない介護を提唱されていましました。その厳しさを知っているからこそ『がんばらない介護』を提唱されているのだと思います。僕は本当に母親の介護を一生懸命にしてきました。その自負があります。正面から闘ってきました。間違った介護もしてきました。一生懸命やっても間違った介護をしてしまっては意味がありません。今はすべてを全力投球すると続かないこともわかってきました」

松浦「最後に野田さんにとって在宅介護とは何ですか?」

野田さん「意地で在宅介護を続けている訳ではありません。在宅で介護することがすべての人に共通する答えだとも思っていません。そんなえらそうなことは絶対に言えません。例えば僕が親不孝をしてこなかったら、お袋の介護はしていないかもしれません。姉や妹や妻がいれば自分で介護なんてしなかったかもしれません。その他にもさまざまな環境が今の自分にそうさせているに過ぎません。ただ、今はお袋が本当に愛おしい。この人が僕のお袋でよかったと・・・それだけですね」

松浦「今日はありがとうございました」

野田さん「こちらこそありがとうございました」

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お母さまと歩んできた歴史は、この短いインタビューでは書ききれません。ぜひ野田明宏さんのホームページや書籍をご覧ください。在宅介護と施設介護。そのアプローチはまったく異なるかもしれませんが、最後にその真ん中に同じ「愛」の気持ちがあることを知ることができました。
松浦美代

野田明宏ネット http://www.noda-akihiro.net/index.html


岡山の介護を支えるプロフェッショナルたち

医療法人 福寿会 理事長
藤戸クリニック
秋山 正史先生

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「医療にできること 介護にできること」

ヴィラ・プランタン せとうちの医療を支える提携医療機関のひとつに医療法人 福寿会 藤戸クリニックがあります。本日は福寿会の理事長であり、実際にヴィラ・プランタン せとうちの医療をサポートしていただいております秋山正史先生と、介護と医療に関してじっくりとお話をさせていただきました。(松浦美代)

教科書が通用しない高齢者医療

松浦「先生とも本当に長いお付き合いをさせていただいております」

秋山先生「松浦さんとは父の代からのお付き合いですね」

松浦「はい。本当にお世話になっています。ところで先生は藤戸クリニックをお継ぎになる前はどちらでお仕事をされていたんですか?」

秋山先生「はい。出身大学の大学病院で勤務していました。実は医師としての勤務はほとんどが大学病院でした。」

松浦「そうすると、いきなり大きな大学病院から、高齢者の在宅を中心とするクリニックへ移られたわけですね。ずいぶんと勝手もちがったのではないでしょうか?」

秋山先生「すごく違いました。(笑) 大学では比較的若い方、壮年の方の診察が多かったので、クリニックに移って患者さんの平均年齢が20歳は上がったと思います。今100歳以上の患者さんも数名いらっしゃいますから。で、まず最初に思ったのが‘高齢者医療には教科書がない’ということです。高齢者は個人個人で非常に大きな違いがあり、これで良いといった標準がないんです。薬の量一つをとってもその人の体力だとか健康状態を考えて決めなければなりません。文字通り匙加減が大切です。若い人と同じようにやると全然だめなので戸惑うこともたくさんありましたが、今ではすっかり慣れて高齢者の方々と関われるこの仕事に、心からやりがいを感じています」

病気ではなく人をみる

松浦「大学で腕をふるわれていた頃と今では何が変わりましたか」

秋山先生「大学では患者さんではなく病気を見ていたような気がします。患者さんを病から救うためではありますが、病気の新しい治療方法であるとか、より優れた手術方法であるとかが勉強の対象になり、患者さんの人間的な背景、たとえば育った環境やそれまでの生活、家族関係などの社会的背景には無関心であったように思います。病気を治す喜びがありましたが、人と接するという意味で患者さんと接する機会は少なかったように思います。反対に今は高齢者の方の病気だけではなく、人として接することができること、そして生活を見てサポートしてあげることができること。自分が思っていた以上に大きな喜びがそこにはありました。」

松浦「例えばそれはどのような事ですか」

秋山先生「先ほども言いましたが高齢者医療には教科書的な治療があまり通用しません。個々の方々を見て診断なり、治療方針を決定することが重要です。その際にはその方の今までの生活環境なども大変重要になってくるわけです。食欲がない、胃が痛いとの訴えられる方がいらっしゃったとき、ご本人の声に耳を傾け、人とご一緒に食事をすることが好きではないことがわかり、おひとりでお食事をしていただく、たったそれだけで症状が消えてしまったこともあります。昔ならすぐに内視鏡検査をオーダーしていたかもしれません。」

松浦「その通りですね。ところで生活をサポートするということに関してもう少しお話しいただけますか?」

秋山先生「生活をサポートする医療といって良いと思います。たとえば癌という病気を考えます。若い方では進行も早くあっという間に命を落としうる大変恐ろしい病気です。ところが高齢者の方ではすごく進行が遅いのです。ですから手術により完全に切除ができるような状況でも、手術によって体力を落とし寝たきりになるかもしれない、あるいは障害が残るかもしれないような場合には、その方の後の生活を考えて何もしない、あるいは癌は残るかもしれないけれどより浸襲の少ない治療を選択することがあります。このように病気をやっつけることを第一に考えるのでは無く、今の生活を維持することに主眼を置いた治療を心がけています。」

介護にできること 医療にできること

松浦「ヴィラ・プランタン せとうちでは医療と介護は両輪であり、その連携がきちんとできてこそ、安心で安全な毎日が実現できると考えています。反対に秋山先生の目からご覧になって介護が気を付けなくてはならないことはありますか?」

秋山先生「医療は必ずしも万能ではありません。しかし、同時に介護も万能ではありません。介護をされる方の中には医療をできるだけ利用しないでおこう、あるいは医療が必要になるには不十分な介護を行っているからだと考える方がいます。確かに終末期に過剰な医療は必要ないと思いますが、医療は介護をサポートすることができます。高齢者の方が自分らしく毎日をお過ごしいただくために、医療をうまく利用し、上手に介護を行うことが大切だと思っています。松浦さんをはじめ、ヴィラ・プランタン せとうちのスタッフはみなさんこのことをよく理解されています。」

松浦「おほめいただきありがとうございます。確かに介護だ、医療だということではなく、いかに高齢者の方々に穏やかな毎日を過ごしていただくかをみんなで考えなくてはいけませんね。」

秋山先生「最近、私はつくづく高齢者の方々は神様に選ばれた人達だと実感することが多くなってきました。長生きをするということは、戦争や病気や、さまざまな人生の危機や苦難を自ら乗り越えられてきたということです。そのひとこと一言に耳を傾けるとき、学ぶべきことがまだまだたくさんあることに改めて気付かされています。これからも医療や介護を通じ、みなさんのお役に立っていきたいと思います。」

松浦「こうした秋山先生のお考えに今のヴィラ・プランタン せとうちは支えられています。今日は本当にありがとうございました。これからも引き続きどうぞ宜しくお願いします」

秋山先生「こちらこそどうぞよろしくお願いします。」

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日々、我々の行う介護を強力にサポートしていただいている秋山先生と、今日は改めて介護と医療の連携に関してじっくりとお話することができました。人と関わる仕事である以上、それをサポートする我々もまた、人と人との強い信頼関係が必要だと改めてそう強く確信しました。(松浦美代)


岡山の介護を支えるプロフェッショナルたち

社団法人岡山県理学療法士会 会長 
朝日リハビリテーション専門学校 校長
岩田 清治先生と語る

「キーワードは『人』と『生活』です」
聞き手 ヴィラ・プランタン せとうち 支配人 松浦美代

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社団法人岡山県理学療法士会会長の岩田清治先生は、現在は朝日リハビリテーション専門学校校長として優秀な理学療法士の輩出に尽力していらっしゃいます。まさに理学療法の発展と共に歩まれている岩田先生ですが、実は意外な業種から転身され、現在のご経歴を築きあげられたことはあまり知られていません。岩田先生の人生に流れているキーワードは「人」です。岩田先生の力強くも優しさに満ちたメッセージを、皆さまにもぜひお伝えしたいと思います。

松浦「本日はよろしくお願いします」

岩田先生「松浦さん。おひさしぶりですね。こちらこそどうぞよろしくお願いします」

松浦「さてさっそくですが、岩田先生が理学療法士となられたきっかけについてお聞かせいただけますでしょうか?」

岩田先生「はい。私は元々、医療の世界とはまったくちがう業界にいました。24歳までは東京でカメラマンを、29歳までは大手百貨店の販売促進部に勤務していました。」

松浦「どうしてカメラマンになられたのですか?」

岩田先生「ある時にユージン・スミスという写真家の水俣病の写真集を見て衝撃を受けました。いつかこんな写真が撮りたいと思いカメラマンになりましたが、なにしろ映像作家は食っていくことが大変ですから、まずは東京で友人と事務所を開いて、ファッションを中心とした商業写真を撮っていました」

松浦「現在とはぜんぜんちがうお仕事ですね」

岩田先生「実はそうでもありません。私がカメラマンをしていた時に付いていたのが、現在も第一線で活躍している、三好弘一というファッション系のカメラマンでした。彼がよく言っていたのは『服を撮るのではなく人を撮れ』という言葉でした。百貨店でも『ただモノを売るのではなく、お客さまとの関係を大切にしなさい』とよく聞かされました。つまり『人』というキーワードが常に、私の中にありました」

松浦「ではそこから理学療法士を志すまでのお
話をお聞かせいただけますか?」

岩田先生「はい。百貨店での販売促進の仕事はとても楽しかったんですが、何か自分の中でもの足りないようになってきました。再び写真の世界に帰りたいなと漠然と考えていたときに、ふとこう考えるようになりました。写真の中に写っているこの障害を有する人はどうしてこんな表情をしているのだろう。何を訴えたいのだろう。そこで出会ったのが『リハビリテーション』という言葉でした。某専門学校を受験し合格しました。勉強を進めて行くうちに、写真ならいくつになっても撮れる。でもリハビリテーション医療分野への転身は今しか出来ないと考えました。29歳の時でした。」

松浦「学校を卒業してからはどのような道を歩まれてきたのですか?」

岩田先生「はい。卒業後は島根県の厚生省外郭団体関連の病院に、その後は岡山県の民間病院に勤務しました。その後、自分の中で目指すべきリハビリテーションのキーワードが明確になってきました。それはやはり『人』に関係しています。私は理学療法そのもののテクニック的なことよりも、障害をもってこれから生きていく人の生活をどうすればいいのか、そんなテーマをずっと考え続けていました。その思いを実現できる場所として、かねてより地域リハビリテーションで、ご一緒に活動させていただいていた青木内科小児科医院の青木先生を頼りました」

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松浦「生活をテーマにしたリハビリテーションとはどのようなものですか?」

岩田先生「かつて脳卒中などで障害を抱えたまま退院した人をひとりずつ家庭訪問したことがあります。驚くことに退院後の生活に不安を持っていなかった人が寝たきりに近い状態になっていたり、不安に思っていた人が元気に生活しているケースをたくさん見てきました。これは生活環境や家族の関わり方などが、その後のリハビリテーションに大きく影響することを示唆していました。病院を主体にしたリハビリテーションではなく、生活の中にリハビリテーションがあるのだと考えなくてはならないことに気づいたのです。機能訓練だけがリハビリテーションではないのです」

松浦「私もまったくその通りだと思います。さて、現在は朝日リハビリテーション専門学校の校長として人材育成に力を入れていらっしゃいますね。岩田先生はどのような理想をかかげて学校運営をされていらっしゃるのでしょうか?」

岩田先生「まず大学と専門学校のちがいについてお話しましょう。一言で言えば大学は研究者と教育者を育てるのがその大きな役割と言えますが、専門学校は臨床家を育てるのがその使命です。必然的に大学では教職者も研究に携わる時間が多いのに対して、専門学校では教職者は人を育てることが使命なので、常に学生のそばにいることになります。それが大きなちがいですね。さらに言えば本校は理学療法士しか養成していません。したがって校長である私も理学療法士のひとりです。ちなみに私の部屋はにぎやかですよ。学生が校長室によく来ます。それが伝統になりつつあります」

松浦「最後にこれから理学療法士をめざす方にメッセージをお願いします」

岩田先生「私は29歳で異業種から理学療法士になりました。でも理学療法士から異業種へ転身した人を私はひとりも知りません。30年間ずっと、私はこの仕事の虜になっています。もし『人』が大好きで理学療法士に興味があるならぜひ、私の学校を見に来てください。介護の分野でも理学療法士の活躍の場はたくさんあります。そして決断は今からでも決して遅くはないはずです」

松浦「本当にありがとうございました」
『人』が常に人生のキーワードだとおっしゃられる岩田先生のお言葉のひとつひとつに、人へのかぎりない優しさを感じました。また、これから理学療法士をめざす方にとっても、参考になるお話だと思います。岩田先生、本当にありがとうございました。

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朝日リハビリテーション専門学校
〒700-0984岡山市桑田町2番21号
(TEL) 086-223-4111
e-mail:shiritai@asahi.ac.jp
http://asahi.ac.jp/


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